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進化経済学会第8回大会 会長講演




21世紀における進化経済学:ひとつのマニフェスト

大阪市立大学 塩沢由典

2004年3月進化経済学会第8回福井大会における講演
進化経済学会ニューズレター No. 16 June 2004 より転載

1.まえおき

 「会長講演」という形式は、わたしの方からプログラム委員会にお願いしました。このことは、進化経済学会の慣例にしてほしいとおもいます。3年に一度、新任の会長に進化経済学の全体あるいは経済学の全体を見渡した大きな話をしてもらい、学会として今後の展望を考える機会にしてほしいのです。

 現在、日本では「進化」ということばは一種の流行語になっています。「進化する○○」「○○は進化した」といったコピーや題名を新聞やポスターでしばしば見かけます。商品や技術が進化することに、いま日本人は驚きの印象をもっています。進化経済学にとって追い風かもしれません。しかし、現在のところ、進化経済学そのものは、経済学の中では小さな存在でしかありません。なぜ進化経済学なのか。進化経済学では新古典派経済学とは違うなにが見えるのか。経済学にとって進化経済学はいかなる意義をもつのか。社会にとっての意義、貢献できる点はなにか。こうした疑問に、学会の内部においても、また外に向かっても、つねに討論し説明していかなければなりません。

2.基本事項の確認:「進化」の視点

 経済を研究し分析するには「進化」という視点が必要だ。こういう共通の理解はあっても、それ以上に突っ込んで議論するとなると、統一的な枠組みといったものはほとんど見られません。大会のチュートリアルで江頭進氏は、なにが進化経済学的なのか統一的な基準がないと指摘された。そのことに異論はありません。しかし、統一した方法的視点がなくてよいという考えには異なる意見をもっています。「進化」には、はっきりした構造がある。経済は、その主要な対象がそうした構造をもっているから、「進化」という視点は重要である。この観点をのぞいては経済の核心が捉えられない。こう考えています。

 進化するものとはなにか。生物、宇宙、人工物、知識、経済事象など多くのものが進化する対象と考えられています。宇宙進化を除いて、これらには共通するものがあります。複製と変異とが見られることです。生物の場合、親から子が生まれてきます。子は親の特性の大部分を受け継いでいます。これが複製です。しかし、ときに特性に変化がおこります。これが変異です。ときに変異を起こしながらも、基本的な特性を複写し、増殖していく。こうした機構は、生物に典型的に見られますが、人工物や経済の多くの対象(商品、技術、行動、制度)にも、それぞれに固有な仕方での複製と変異とが観察されます。

 複製と変異という形で変化していくもの、それを「複製子」(Replicator)と呼びます。経済の主要な対象は複製子としての性格をもち、そのようなものとして固有の変遷と展開がある。これが経済を進化という視点から分析すべき基本的理由です。

 商品、技術、行動、制度などは典型的な複製子と考えられます。それらが以下に複製され、いかなる変異を起こすのか。これを個々に確認しておく必要があります。進化するものは複製子であるという定義をおくとき、しばしば進化するものとされながら、この定義に当てはまらないものも出てきます。

 「企業の進化」と通常いわれるものは、同一の会社におこる変化です。個体=企業というレベルで考えると、企業を複製子ということにはかなり無理があります。他方、インターネットのようなシステムについても、それが「進化する」といわれることがあります。このような用例は、進化するものは複製子であるというわたしの整理には当てはまりません。しかし、これらは複製子の束(たば)であり、複製子を構成要素とするシステムと考えればよいのではないでしょうか。企業は、その行動や技術、商品を進化させることで変化します。インターネットが「進化するシステム」であるといわれるのは、構成要素の進化を許容する「進化に開かれた」システムのことを言っているのだと解釈できます。用語を整理するなら、これらを「進化」と呼ぶのは正確ではなく、別の表現、たとえば「内発展=involution」を使うのがよいと思われます。

3.進化の起こる場:経済発展への視点

 進化経済学は、個々の複製子の進化すなわち変異の歴史を追うだけのものではありません。このような進化がどのように起こるのか。複製子たちが相互に競争している場はどんなものか。選択(淘汰)はどのように進行するのか。こうした考察こそが進化経済学の中心になるべきことです。

 川勝平太氏は、経済史の視点として「物産複合」という見方を唱えています(1)。経済発展は、もののあつまりの変化からおこるという考え方です。江戸から明治期の日本の特異な発展を、川勝さんはインドの物産がどのように受容されたかという観点から日本とヨーロッパの近代史を解説しています。「物産複合」の前には、中尾佐助の「物産文化複合」という概念もありました。川勝さんは、マルクスの唯物史観に匹敵する図式を物産複合と文化複合の二つから描き出しています。物産複合は、いうまでもなく複製子の集まりです。社会がもつ複製子の集まりの大きな流れとして経済史を解明する。これが川勝さんの経済史の方法としたら、これは進化経済学の見事な実現のひとつといえます。

 商品のすべての品目の集合は、生物の遺伝子プールに相当する「複製子のプール」と見ることができます。それぞれの品目は、市場で売れるにしたがって、必要個数複製されます。どの商品が市場で優勢になるかは、消費財であれば、消費者の選択によります。この選択も、店頭で最初に手に取っておこなう選択と使ってみての選択とあります。製品の規格は、制度の一種ですが、De Fact標準をめぐる世界的競争があります。技術は、多くは補完的ですが、場合によると競合します。そのとき、技術選択は、それらを実現する商品における競争として、市場で行われます。このように、複製子たちがどのように選択されていくか。これは、経済学が「競争」ということばで語ってきた部分です。進化経済学は、これについて新古典派の消費者選択より深い分析を示さなければなりません。

4.相互作用:経済機構への視点

 経済の機能様式は、複製子の選択という場面を通して、長期の変化につながる傾斜構造を作り出しています。複製子の選択については、進化経済学には、複製子動学(replicator dynamics)という分析用具があります。しかし、そこにとどまらない市場の理論が要請されます。進化経済学は、それ固有の価格理論を持たなければなりません。その基礎は、次の定理にあると考えられます。

[定理]評価の異なる二人は、その所有物を交換することにより、双方ともその所有財の評価を高めることができる。

 これはリカードウの比較生産費説やカントロビッチの工場間取引、エッジワースのボックス・ダイヤグラムの背後に共通する定理です。新古典派の均衡条件は、この定理の逆の裏にあたります。その意味では、数学的には同値ですが、どこに目をつけているかが異なります。新古典派では、均衡が到達された状況を考えます。上の定理は、改善が可能な状況に光を当てています。

 最大化仮説の破綻は、すでにさまざまに指摘されています。新古典派の内部にも、限定合理性という主題のもとに、これを受容しようという動きがあります。しかし、均衡としいう枠組みにとどまるかぎり限界があります。あたらしい理論は過程分析でなければならないでしょう。ルーティン行動=プログラム行動は、こうした枠組みの中で定式化されます。これはエージェント・ベースのモデリングの前提ともなります。問題は、均衡ではなく、いかに事態が改善されていくかなのです。

 こうした視点の転換が行われると、新しい意味が見えてきます。交換は、二人の個人の意思決定で決まります。市場が進化を許容するシステムである根本的な理由がここにあります。互酬や再分配のシステムでは、慣習の変化や中枢による決定がなければ進歩はありません。20世紀に行われた世界競争で計画経済が敗退したのも、それが市場経済に比べて進化に開かれたシステムでなかったからです。進化経済学は、独自のミクロ理論を持ってこそ、その大きな意義が開示されてきます。

 わたしは、以前、方法論的個人主義・方法論的全体主義の双方を乗り越える視点としてミクロ・マクロ・ループという考えを提起しました(2)。これは全体過程の中で選択の圧力を受けながらある定型行動が生き残ること、それらの相互作用の結果として全体過程の特性があること、したがってミクロとマクロのループの中でしか、経済をただしく分析することはできないという主張です。複製子の集合が場を構成し、その中における複製子の相互作用による選択が複製子の集合のあり方を規程していく。このサイクルは、まさにミクロ・マクロ・ループというべきものです。

5.新しい方法

 経済学の歴史は、大きく3段階に分けられます。古典派は文学的方法に依存していました。新古典派は数学的方法に依拠しました。これは強力な方法でしたが、固有の限界があります。経済学の主題が最大化と均衡に限定されてきたのは、解析の可能性な範囲がここに限定されているからです。価格を独立変数とする均衡という枠組みを維持するために、ミクロ経済学は、企業は売りたいだけ売れるとか、規模にかんする収穫逓減だとか、消費者は効用最大化の選択をしてるとか、いくつもの非現実的な仮定をおいてきました。このような仮定が必要なのは数学という方法に分析をとどめようとしているからです。

 現在は、文学的方法、数学的方法に次ぐ第3の方法が提起されています。エージェント・ベースのシミュレーション(ABS)あるいはマルチ・エージェント・シミュレーション(MAS)と呼ばれるものです。和泉潔氏の人工市場やわたしも関係しているU−Martなどは、その典型といえる事例です。

 コンピュータ・シミュレーションは、理論・実験に次ぐ第3の科学研究法といえるものです。実験が科学の方法になるまでに数世紀を要したように、シミュレーションもそれが科学の方法として確立するには時間がかかるでしょう。しかし、これまでの数学的方法では接近できなかったさまざまな現象をこの方法で解析することが可能になってきました。新しい方法は、工学者たちの協力なくしては、うまく推し進められません。幸い、この学会には、ヨーロッパやアメリカと違い、多くの工学者に参加してもらっています。こうした与件をうまく生かして、新古典派に代替できる経済学として進化経済学を展開していく必要があります。

(1)川勝平太『経済史入門』日経文庫88、2003年8月。
(2))「ミクロ・マクロ・ループについて」『経済学論叢』(京都大学)第164巻第5号、2000年10月(実際の出版時)、pp.1-73.



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